飯田橋駅前今昔比較(1984/2017)
以前紹介した記事(2012.03.20 公開:昭和の交通標語) の現在の姿を撮影してきた。
飯田橋駅周辺のビルが増えたこと以外、あまり変わっていない風景。
交通標語は、1984年の「バイクもヘルメットをかぶろう!」という行政からの一方的な呼びかけから
2017年は「いっしょに安全!」という行政と共に交通安全を実現しましょうね、という協働的なものへ。
なぜ下鶴間のラブホテル「ロイヤル」の写真を撮ったのか
【神奈川県大和市下鶴間 上:1979年 下:1999年】
私は1979年から1984年まで大和市つきみ野に住んでいた。住んでいたマンションの廊下から見えるお城のような建物は一体何なのだろう?と幼心に感じていた。お城にはロイヤルと書いてある。うん、やっぱりお城だ!
不思議の国のアリスにでてきそうなお城は私のお気に入りで、よくスケッチをしていた。
当時私が描いたスケッチは残っていないが、孫に会いに来たsuishiはそのお城の写真を撮っていた。
suishiが撮影してから20年後の1999年、私はふと気になり、かつて住んでいたマンションを訪れた。あのころスケッチし続けたお城は健在だった。大人になってみてそのお城はラブホテルであったことを知った。
今回、suishiが1979年に撮った写真を見ながら、そういえば、自分も1999年に写真を撮ったことを思い出し、当時のアルバムをめくってみると、同じような角度で写真を撮っていた。
1999年当時、私は懐かしい風景を自己の記憶定着のためにシャッターを押した。遡ること更に20年前、suishiは孫のお気に入りの景色をsuishi自身の記憶のために記録していた。その結果、20年のブランクがあるものの、記録者の異なる同じ写真が残った。
ここ最近、suishiが膨大な写真を残した意味を考え続けていたが、私自身も同じような動機で写真を撮っていた。
suishiは人に見せない写真をせっせと撮りためていたが、自分も全く同じことをしていたことを再認識した2枚の写真である。
ロイヤルの今が気になり、グーグルアースで周辺を検索すると、雑木林のほとんどはすっかり宅地になり、よくある「小奇麗な郊外」になっていた。ロイヤルの建物は健在であったが、すでに営業しておらず廃墟化していた。
岡山駅前今昔比較2
【
【上:1994年 下:2016年 岡山駅地下改札】
前回に引き続き、岡山駅地下の今昔比較。
新幹線乗り場のある表玄関としての東口と、奉還町方面など下町風情を残した西口とを繋ぐ東西連絡通路。西口側には大規模な地下自転車置き場があることから、岡山駅までJRを利用し、駅からは自転車で通学という高校生・大学生の通りも多い。
連絡通路自体は20年でほとんど変化がないのであるが、東口側は大分様相が変わった。
1994年当時は公衆電話やコインロッカーが並ぶ閑散とした通路であったが、ここ10年くらいでカフェやエステ、ドラッグストアーなどが次々と開店した。昨年末の撮影では写真左側は改装中であった。
この20年で、いかにも90年代なストーン風壁のデザインはシンプルなベージュに変化したが、床の模様だけは昔と変わらず。そう考えると、床材の耐用年数って意外と長いんだなぁと改めて気づく。
※当ブログ、2017年3月で解説5周年を迎えます。最近ではTwitterで「1日1枚suishi写真」として毎日写真をアップしています。そちらもぜひご参照ください。 アカウント名 suishi @suishi1916
岡山駅前今昔比較1
suishiは晩年岡山に住んでいた。70歳代後半になると撮る写真の枚数も減ってきたが、撮る視点は昔と何も変わっていない。
前回の投稿で紹介した1994年のJR岡山駅地下改札の様子を大きな写真でもう一度。
90年代の写真なんてまだ最近じゃん!と、suishi晩年の写真にあまり注目していなかったが、考えてみれば1994年といえばもう23年も前の話になる。
あらためて当時の写真を見ながら、現在の様子を比較してみた。
【上:1994年 下:2016年 岡山駅地下改札】
1994年当時、単色であるがLEDの発車標が使われている。一番の違いは有人改札が自動改札になったこと。岡山駅の在来線改札口の自動改札化は2007年と以外に歴史が浅い。
1994年当時、改札入口には「終日禁煙」の表示が目立つ。1980年代まで駅のホームでタバコを吸うのは当たり前な光景で、ホーム前の線路は吸い殻だらけだった。公共の場での禁煙ムードが高まったのが1990年代。そして現在はわざわざ「禁煙」の表示をしなくても「駅構内は禁煙である」という前提が出来上がっている。
さて、この2枚の写真で地味ながら注目したい変化は、点字ブロック。1994年も2016年も点字ブロックがあるが、位置が変わったのは別として、その形状の違いを見てほしい。
1994年は点の集合、2016年のは立て筋4本並んだもの。日本JIS企画では、点の集合は「警告ブロック」、立て筋のブロックは「誘導ブロック」と決められている。2016年のは改札へ誘導するブロックであるとすぐわかるのだが、1994年は改札へ向かう道すべて「警告ブロック」になっている。なぜ??
実は点字ブロックのJIS企画ができたのは2001年のことで、それ以前は様々な形のブロックが存在していたようだ。つまり、1994年のそれは「警告」の意味は全くない。
まだまだ見どころがたくさんあるところだが今回はこの辺で。suisiが撮影した何気ない写真と現在の写真を比較するだけでこれだけ楽しむことができる。次回も岡山駅周辺今昔比較をお送りできればと思ってるところだ。
2016.12.7 suishi生誕100年 なぜ写真を撮り続けていたのか
【1964年 カメラを下げるsuishi48歳】
2016年12月7日、私の祖父であるsuishiこと中塚浩が生まれて100年の日である。
先日、suishiゆかりのお寺である、岡山市北区の蔭凉寺で「中塚浩が遺した写真〜昭和の東京の日常〜」を主催した。ゲストに日本ピクトさん学会の内海慶一氏を招きsuishiが記録した写真について語った。
トークの中で内海氏より、このブログの説明にsuiihiの「趣味はカメラ」と書いているが、果たしてそうだったのだろうか?という問題提起があった。あらためてsuishiの写真を眺めていると、確かにsuishiはカメラで写真を撮ることを趣味としていたのか?と思う写真に出くわす。
【1962年:雑色住宅内】
例えばこの写真。何を撮っているのかわからない。写真右は自分の娘であるがピントは合っていないし、娘も被写体になっていることに気づいていない。タンスの上のオーディオを撮影したかったのか?そうであればもっとオーディオに寄ってもいいはずだ。
【1962年:撮影場所不明】
この写真も判断が難しい。左の唯一カメラ目線を送っている自分の娘を撮影したのだと思うが、外灯、看板、通行人など画面の中に余計な情報が多すぎる。
このブログを開設して来年3月で5年になるが、ここで紹介されている写真はすべてsuishiの死後、遺品の中から発見されたもので、生前その存在を知るものはいなかった。家族はsuishiがいつもカメラを持って「何か」を撮っていたことを知っていたが、現像された写真を見ることは無かった。
人に見せることのない写真を撮り続けていたsuishi
このような写真を見ながら内海氏は繰り返し「何のために撮っていたんだろう・・?」とつぶやく。
suishiはなぜ写真を撮っていたのだろう。そのことをsuishiの娘である私の母に聞いてみた。
母は詳しいことはわからないとした上で、「父は、自分の目で見たままのものを記録しておきたかったのじゃないか。記憶はやがて薄れてしまうが、写真に残しておけば忘れることはないと思ったのではないか。」と推察する。
suishiにとって写真は作品ではない。表現手段でもない。ただ、自己の記憶を補完するための道具に過ぎなかったのではないか。
たまたま、孫である私がsuishiの死後15年のブランクを経て見つけ、このブログで「昭和の記録」としての価値を後付けしているにすぎない。
suishiは1940年頃から亡くなる直前の1996年までの50年以上、記憶の補完のために淡々とシャッターを押していた。
写真の技術が向上することもなく、見せる意識を持つこともなく、ブレることなく写真に残していた。
【1962年方南町駅 46歳のときの写真】 【1994年岡山駅 78歳のときの写真】
これからもsuishiの記憶の中の昭和をブログやツイッターで紹介していきます。今後ともよろしくお願いします。
作曲家suishiの作品が75年ぶりに復活!
suishiの遺品の中から1冊のノートが見つかりました。ノートは五線譜でピアノやバイオリン、合唱の曲が書かれています。
これらの曲はすべてsuishi自作で、1940年から1943年、日本大学文学部音楽学科(現日本大学芸術学部)在籍時に作曲されたものです。
ノートにおさめられているのは全部で13曲、すべて演奏時間の短い小品です。
suishiは長くNHKの音楽資料室やNHK交響楽団に関わり、クラシック音楽に造詣の深い人物として知られていましたが、自身がかつてピアノやバイオリンを演奏し、作曲もしていたことを人に話したことはほとんどなかったようです。
さて、12月3日(土)に蔭凉寺で行う、suishi生誕100周年イベント「中塚浩が遺した昭和の写真」〜戦前・戦後の東京の日常〜 で、太平洋戦争中に作曲された作品を演奏します。
演奏者としてsuishiの長女で、プロバイオリン奏者(岡山フィルハーモニック管弦楽団在籍)野村由美子さんと、作曲家・ピアノ演奏家の三好麻友さんと迎えます。野村由美子さんと三好麻友さんは、7月に公開され全国的に注目を集めているドキュメント映画「クワイ河に虹をかけた男」(満田康弘監督)の音楽を担当し、音楽レコーディング以来の共演となります。
演奏予定の曲は
即興円舞曲(1940.12作曲)ピアノ:三好麻友
黒鍵のみを用ひてのある遊戯(1941.12作曲) ピアノ:三好麻友
自由なる形式に依るヴァイオリンとピアノの為の二重奏曲(1941.10作曲) バイオリン:野村由美子 ピアノ:三好麻友
の3曲です。
一般的に「暗いイメージ」で語られる戦時中、suishiは音楽表現を通じてどのように時代と向き合おうとしたのか。75年間封印された五線譜を音に再現します。
イベントについて
タイトル 「中塚浩が遺した昭和の写真」〜戦前・戦後の東京の日常〜
日時 12月3日(土)
18:00〜20:00(受付開始17:30)
場所 蔭凉寺(岡山市北区中央町10-28)
定員 50名
参加費 500円(高校生以下無料)
出演 野村泰介(suishi's photo 管理人:中塚浩の孫)
内海慶一(著作家、コピーライター)
野村由美子(バイオリニスト:中塚浩の娘)
三好麻友(作曲家、ピアニスト)
中塚浩(suishi)(1916-1997)
中央大学専門部法学科、日本大学文学部芸術学科卒業後、1944年NHK入局。音楽資料整理・収集のエキスパートとして活躍。趣味はカメラで1940年代〜1980年代まで東京を中心に多くの写真を残す。
ツイッター @suishi1916
ブログ suishi's photo http://suishi.jugem.jp/
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申込み方法
1.お名前 2.人数 3.電話番号 4.メールアドレス 5.高校生以下の場合は「高校生以下」と記入 をguinsuke@yahoo.co.jp までお送りください。
【イベントのお知らせ】中塚浩が遺した昭和の写真〜戦前・戦後の東京の日常〜
今年は私の祖父、suishiこと中塚浩が生まれて100周年。来年年明けは没後20年となります。
私はsuishiが遺した膨大な量の写真の整理と管理をしています。その数おそらく2万枚以上。これらの写真を4年前からブログやツイッターにあげて紹介してきましたが、生誕100周年を記念してイベントを開催します。
イベントはsuishiが記録した昭和の東京の生活に関するトークショーを内海慶一氏と共に。また、音楽家でもあったsuishiが1940年代前半に作曲した未公開曲をsuishiの娘(私の母)である野村由美子が演奏します。(ピアノ伴奏は映画「クワイ河に虹をかけた男」の音楽制作で共演した三好麻友さん)
suishiの職場であったNHKの内幸町時代〜渋谷移転の頃の貴重な写真も多数公開します。
会場は、アートイベントを多数開催している蔭涼寺。ここは、うちが檀家となっているお寺でもあり、写真と音楽を愛したsuishiのイベントとしてピッタリな場所です。
suishi写真の楽しみを共有するよいチャンスです。多数の参加をお待ちしています。
スライドトークテーマ
1.昭和の日常
2.suishiの生い立ち
3.suishiとNHK
4.父の思い出
5.suishiスナップの魅力
6.紙モノ(チラシ、映画の半券、電車の切符など)
日時 12月3日(土)
18:00〜20:00(受付開始17:30)
場所 蔭涼寺(岡山市北区中央町10-28)
定員 50名
参加費 500円(高校生以下無料)
出演 野村泰介(suishi's photo 管理人:中塚浩の孫)
内海慶一(著作家、コピーライター)
野村由美子(バイオリニスト:中塚浩の娘)
三好麻友(作曲家、ピアニスト)
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申込み方法
1.お名前 2.人数 3.電話番号 4.メールアドレ
FBイベントページ https://www.facebook.com/events/1145762925506140/