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2016.10.15 Saturday

家族を時代と共に記録する

【1963.11 方南町環七通り付近】

1964年の東京オリンピック前後で東京の姿はガラっと変わった。この写真はオリンピック1年前、環七通りと方南通りを立体交差させるための工事の様子だ。

 

工事完成後の様子は以前投稿したのでそちらを参照してほしい。

環七立体交差完成(2012.4投稿)

 

さて、この写真の構図が独特である。タテ向きに見下ろすように右下に家族(左は私の祖母、右は母)、中心には道路を走る車、左上には工事現場。

高度成長を現在進行形で進んでいく一家を切り取った記録として全くムダのない1枚だ。

 

suishiはしばしばこのような構図で家族の写真を撮っている。

家族を時代を象徴する背景と共に記録する、後世になって家族以外が見ても興味が尽きない。

 

【2016年 方南町環七通り付近】

現在の姿。祖母はすでに他界してしまったが、この場所に母を連れて写真を撮ってみたいものだ。

 

2016.07.11 Monday

職場に天皇陛下がやってきた!

今から58年前の1958(昭和33)年7月11日、昭和天皇がsuishiの職場であるNHKを見学された。当時の新聞記事によると、陛下による最新のテレビ放送システムの見学がメインだったようだ。約1時間の見学時間の中で、ちなみにこの頃のNHKは渋谷ではなく、皇居にほど近い内幸町にあった。


約1時間の短い見学時間ながら、長唄のテスト放送、学校放送、ドラマなどのテスト放送、国際放送ラジオの実況の現場をNHK会長の案内で見て回られた。

 

当時の新聞スクラップがこちら。

 

自分の職場に天皇陛下が来られたという大切な思い出をしまってあった。

 

その新聞記事と同じ封筒に入っていたのがこちら。

suishiもカメラを持って、しっかりと昭和天皇と皇后の写真をおさえていた。多くのNHK職員(おそらく幹部職員だろう)に囲まれ、建物を後にする昭和天皇と、その数歩後を歩く皇后。多くのカメラマンに交じって写真を撮っていたsuishi。

 

ちょっと気になったのだが、この写真、天皇を護衛するSPの姿が見えない。この時代、警護なしでお出かけされていたのだろうか。

 

 

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2016.06.20 Monday

地下鉄丸の内線方南町支線開通そのとき

suishiの方南町シリーズ、今回は地下鉄開業当時の写真を紹介する。

 

方南町に地下鉄が開通したのは1962年3月のこと。地下鉄丸ノ内線の中野検車区と中野工場への引き込みも兼ねて、支線の形で建設された。支線建設当初は、中野工場すぐ近くの中野富士見町が終点であったが、方南町地域住民の要望もあり、延伸された。

 

suishiは地下鉄開業の様子をしっかりと記録に残していた。

 

【方南町駅:1962年3月】

当時、営団地下鉄(現在の東京メトロ)は丸ノ内線、銀座線、日比谷線の一部しかなかったことがわかる。このポスターにある、荻窪線というのは、現在の丸ノ内線の新宿荻窪間のことである。1972年に丸ノ内線に名称統合されるまで、荻窪行きを荻窪線、方南町行きを荻窪支線と呼んでいた。

 

方南町駅からの料金表。初乗りは20円。一番遠い浅草や南千住まで行っても60円。

 

【方南2丁目】

方南町かいわいは地下鉄開業に祝賀ムードであった。

開業記念はちょっとしたお祭り気分。

商店街は大売出し。風船プレゼント、祝賀パーティ、そして花火を打ち上げる。大騒ぎである。

記念演芸会のプログラムが漫才、奇術、曲芸、音楽トリオ、民謡に始まり、映画上映まで行われた。ちなみに、映画プログラムのひとつが小林桂樹版「裸の大将」。

 

この写真は以前も掲載した。有人改札の雰囲気は遠い過去のもののような気がする。「定期券拝見」の存在感がすごい。

こちらも再掲ですが、現在の改札の様子。

 

開業当初の電車の様子。色々調べてみると、この車両、支線運用としてはイレギュラーなものであったようだ。

1960年代、支線に使われていた車両は、戦前から銀座線を走っていた100形という古い車両。本線で使われていた400形が支線に入るのは珍しい写真のようだ。

ちなみに現在では02系80番台という車両が3両で走っている。

 

2016年現在、支線は中野坂上と方南町の間3.2キロを3両で折り返し運転を繰り返している。方南町駅のホームが短いため、本線の6両編成が入れないためだ。現在、6両編成対応すべくホーム改良工事がすすめられている。近いうちに方南町まで本線直通運転が実現する。

 

2016.04.15 Friday

ジャンプするポーズで写真を撮る

ここ数年、ジャンプをして写真を撮るのが若者の間で流行している。あるストックフォトサイトで「ジャンプ」と検索すると写真が46591点もヒットした。

ジャンプをした人物をテーマにした写真作品も人気を集めている。青山裕企氏は「ソラリーマン」というシリーズでジャンプをしたサラリーマンの作品を発表している。

また、林ナツミ氏は「本日の浮遊」というシリーズでジャンプし、あたかも宙に浮いているかのようなセルフポートレートを公開している。

3年ほど前には女子高校生の間で「マカンコウサッポウ」という中央に立つ人間が発する気の力で周囲人間が飛ばされるというトリック写真が流行した。

トリック写真とまでいかなくとも、観光地などに行くと、ジャンプした写真を撮っている人々をよく目にする。

いまや日本全国プロから女子高校生までジャンプポーズ写真が大好きである。

なぜここまでジャンプポーズ写真が流行しているのか。プロの写真家の作品は別として、ちょっとしたジャンプポーズの写真が簡単に撮れるからである。

デジカメやスマホの連写モードでジャンプの一部始終を撮り、ベストショットを選び、あとは消去。気に入らなければ何度でも撮り直し。

さて、前置きが非常に長くなったが、この写真を見てほしい。

【1969年4月:群馬県猿ヶ京温泉】
今から48年前に撮影されたジャンプポーズ写真である。suishiの職場の慰安旅行で群馬県の猿ヶ京温泉を訪れたときのものだ。

写真に写っているのが誰であるか特定できないのでボカシをかけている。都会の喧騒を忘れ、のびのびとしている様子がボカシをかけていてもわかる。

そしてこのジャンプポーズである。suishiがどのようなカメラで撮影したのかわからないが、ブレていないのできちんとシャッタースピードなど設定して撮ったのであろう。同じような写真が複数ないので連写などせず一発撮りだ。当然フィルムなので撮影した写真をすぐ確認などできない。
何より、お堅い昭和のNHK職員のこのはじけ具合、ジャンプを求めたsuishiの遊び心であり、今から48年前、高度成長期ど真ん中、まだまだ天井知らずのジャンプの写真、スマホで簡単にとれる現在のジャンプポーズ写真よりはるかに重みのある1枚だ。





写真素材のピクスタ  
2016.04.11 Monday

1等車に乗れるということ


【1963年:新宿駅】
1963年夏の新宿駅にて、妻と子の松本への旅行の見送りの1シーンである。気動車急行「アルプス」か「白馬」か「上高地」のいずれかだろう。気になるのは2枚目の写真の「1」という表示。その下には「指定席車」というサボが掲示されている。そう、現在のグリーン車にあたる1等車に乗っているのだ。いや、厳密にいうと、現在のグリーン車と当時の1等車は料金概念が少々異なる。

グリーン車に乗車するには、運賃+グリーン料金、そして(現在ではほとんど無いが)急行の場合は急行料金、特急の場合は特急料金が必要だ。急行料金や特急料金にグリーン車か普通車かの区別は無い。このグリーン車の制度が誕生したのは1969年のことだ。

では1969年以前はどうだったかというと、運賃や急行料金などが1等、2等と等級制になっていた。1等は概ね2等の2倍の料金であった。現在の制度と大きく異なるのは、急行の1等車に乗る場合、2等のおよそ2倍の運賃を支払う上に、急行料金も2等の2倍である1等急行料金を支払う必要があった。さらに通行税1割(1963年当時)が上乗せされた。運賃も2倍、急行料金も2倍、そして通行税。1等車は2等車に比べかなり割高な存在であった。

あまりピンとこないかもしれないので、実際の料金で比較してみよう。
現在、新宿から松本までJRを使って行くにはいくら必要なのか。現在、同区間に急行は走っていないので、特急で計算すると、

新宿-松本 運賃4000円 特急料金(指定席)2820円 合計6820円

グリーン車を利用する場合、グリーン料金が4110円なので、普通車の料金に加えた合計10930円 グリーン車と普通車の価格差は1.6倍といったところである。

仮に現在の料金でかつての等級制料金体系をおおよそ当てはめた場合、

新宿-松本 1等運賃7330円 1等特急料金6210円(通行税1割加算) 合計13540円、2等との価格差は約2倍。

現在のグリーン車、価格差は2倍を下回っている上に、企画きっぷなどを利用すればもっと割安で乗車することもできるが、当時の1等車は純粋に2倍払うことのできる経済力を持つ人しか乗ることができなかった。

では、1963年当時、この急行の1等車指定席に乗るにはいくら必要だったのか。

新宿-松本 1等運賃 1140円 1等急行料金 440円(通行税1割加算) 座席指定券 200円 合計1780円 

これが2等車自由席であれば、
新宿-松本 2等運賃 620円 2等急行料金 200円 合計820円 である。その価格差はおよそ2.2倍!


suishi家は家族の旅行に1等車を使えるほどの経済力を持っていたのか。

興味深い記録が見つかった。suishiの家計簿に当時いくら給料をもらっていたのかが残されていた。
1963年8月、suishiの給料は手取りは99300円であった。この数字がどのくらいのものなのかと、当時の地方公務員の平均給与が32300円。当時suishiは47歳の管理職ということを勘案してもかなりの額をもらっている。

当時、はがきが5円、現在は約50円という尺度で比較すると手取り99万3000円。ほぼ月給100万円プレーヤーである。

なるほど、1等車にポーンと乗れるだけの経済力が確かにsuishiにはあったのである。
2016.04.04 Monday

ここはどこなのか?―グーグルだけで古写真の現地を特定―


【写真1 1964年:杉並区方南町】
舗装されていない緩やかな傾斜の路地。周りにはうっそうと茂る草木。その間から除く住宅。suishiが記録した写真のキャプションによると1964年の方南町とある。

このブログでも何度か紹介しているが、1960年代の杉並区方南町界隈、バスの通るメインストリート以外はこのような「薄暗い緑」のイメージであったようだ。

さて、方南町といっても、実際にここはどこなのか?現在はどのようになっているのか?遠方のため現地に行くことはできないので、手持ちの資料とグーグルアースで調べてみた。

1.同じ場所を撮影した別の写真を探す
suishiは1960〜70年代に方南町の写真を多く残しているので、同じ場所を撮影した別写真を探してみた。手がかりは、下り坂、写真左の木、そして「クスリは大丸」「質 中屋」という電柱広告。すると見つかったのが次の写真。


【写真2 1963年:方南町】
下り坂、写真左の木、「クスリは大丸」「質 中屋」という電柱広告、すべての条件をクリアし、更に、米屋のミナモト、「雪印バター」の看板の商店という新たな手掛かりも見つけることができた。
しかし、「方南町 米屋 ミナモト」「方南町 雪印バター」などで検索してみても特に手がかりは得られず。

続いて見つかったのがこの写真

【写真3 1963年:方南町】
写真左は二車線の大きな道路。右に入ると生活道路になっている。お、生活道路の奥にはあの風景が。

左に「雪印バター」の看板、その奥にはうっそうとした木、そして下り坂。かなり場所を特定することができた。

あとはこの写真にある「洋品 あみもの ひつじ屋」、大きな通りの左側にある「おしどり●」「よりい会館」の所在地がわかれば完了。当時の住宅地図をあたれば簡単に見つかるのだろうが、50年以上前の杉並区の住宅地図を簡単に閲覧できるような場所にいないので、グーグルの力を借りることにする。

「方南町 洋品 ひつじ屋」「方南町 おしどり」などなど検索にかけてみたが、まったくヒットしない。困った。

もう一度写真2をじっくりと観察し、「雪印バター」の看板に注目してみた。

よくよく看板を眺めると、雪印バターのお店ではなく「食料品缶詰 江戸屋支店」という店名、下には電話番号まで書いてある。

この電話番号と「江戸屋」を入力してググってみると、「江戸屋酒店」がヒットした。どうやら現在も営業しているらしい。住所も杉並区方南町二丁目と特定できた。

はい、完全に特定完了!!!

写真1は、地下鉄方南町駅そばのマクドナルドの辺りから方南通り東方面に少し進んだところを右に入ったところであった。

















さて、現在、この地はどのような姿になっているのだろうか?

インターネットとは便利なもので、現地に行かなくても、グーグルのストリートビューで住所を入れると、はい、この通り

写真3の現在の様子(グーグルストリートビューページへのリンク)

ひつじ屋であったところはクリーニング店となり、「おしどり」も「よりい会館」もなくなっている。写真右端にあるコンクリートの壁だけが当時の面影を残しているが、この地も近いうちに再開発で10階建てのビルになるようだ。

あらためて写真1のような薄暗い緑の路地というものは、東京都心には見られなくなった風景であることがわかる。

グーグルだけで古写真の現在地特定を試み、特定までかかった時間が約1時間。方南町はsuishiゆかりの地とはいえ、私自身それほど詳しい街ではない。私に土地勘があればもっと早く解決できたかもしれない。



 
2016.03.27 Sunday

1963年の下田市あれこれ

今回は東京を離れ、suishiが伊豆半島の南端、静岡県下田市を訪問した際の写真を紹介する。


【長楽寺(静岡県下田市):1963年】
1854年3月31日、日米和親条約の締結により長い間鎖国状態にあった江戸幕府に開国を認めさせたアメリカのペリー。最初にアメリカへ門戸を開いた港が伊豆半島の南端、下田である。アメリカが日本の開国に成功したという報はすぐに列強諸国の耳に入るところとなり、我も我もと開国要求にやってくる。

アメリカに一歩遅れを取ってしまったのがロシアである。日本とロシアの関係はアメリカのそれよりずっと古い。ペリーの開国要求よりも50年以上前から通商を求めている。しかし、日米和親条約から遅れること約1年、1855年2月7日に日露和親条約を結び、ロシアに対しても開国した。そのときのロシア全権はプチャーチン。プチャーチン一行は、下田の長楽寺で条約に調印した。

ちなみに条約の中に日本とロシアの国境に関する内容が含まれていることから、日露和親条約が結ばれた2月7日を「北方領土の日」とし、長楽寺と、同時期にアメリカの総領事館として使われていた玉泉寺の間を走る「北方領土マラソン」が行われているらしい。

さて、プチャーチンは条約交渉の最中である1854年12月23日、安政東海地震に遭っている。この地震の津波により、プチャーチンの船ディアナ号が大破(のちに沈没)してしまった。条約調印後、プチャーチンは幕府に帰国のための船を建造することを願い出、伊豆半島北西の戸田(へだ)村で日露合同による船の建造が行われた。完成した船はヘダ号と名付けられ、プチャーチンは無事にロシアへ帰国した。


【下田ドック:1963年】
寝姿山をバックに下田船渠のドックを撮影している。
かつて下田は造船で栄えた。この写真の撮影後、湾を埋め立て、ドックが次々と拡張された。しかし1974年をピークに造船業は次第に勢いを失う。1993年には巨大なドックは閉鎖され、現在、下田ドック跡地は公園となっている。


下田市の美人ミスコンクールの顔ハメ看板で遊ぶsuishi。この頃から顔ハメ看板があったのか。大きさからして対象は明らかに大人。なかなか味のある顔ハメ看板である。

今回は下田市を紹介したが、suishiは全国出張が多く、その土地で写真を撮影している。折をみて東京以外のものも紹介していこうと思う。
2016.02.07 Sunday

マンサード屋根の国鉄渋谷駅


【1965年:国鉄渋谷駅北口】
ずーっと工事しているイメージの強い渋谷駅。地上に地下、そして地空、日々その姿をダンジョンのごとく複雑に変え続ける渋谷駅。しかしその変容を解説するのはこのブログの趣旨とは異なるので、今回はこの1枚のみを紹介する。

1965年の国鉄渋谷駅北口の姿である。ハチ公前と表現した方がわかりやすいかもしれない。東急百貨店東横店東館と東急会館と呼ばれていた東急百貨店東横店西館に囲まれるように見下ろされているのが昭和モダンな小さな駅舎。

この駅舎は1930年に建てられた。腰折れのマンサード型と呼ばれる屋根が特徴的だ。マンサード屋根はこの頃流行っていたスタイルのようで、1927年に建てられた小田急向ヶ丘遊園駅や、道玄坂に現在も残る昭和初期に建てられたと思われる看板建築にもマンサード屋根が見られる。

※追記 旧渋谷駅や下の看板建築のように切妻屋根の場合、正確には「ギャンブレル屋根」と呼ぶそうです。


【2013年:道玄坂】

さて、suishiがなぜ1965年に国鉄渋谷駅の写真を撮影していたか。

写真のこの部分に注目したい。「○○三次計画 ○○改良工事」とある。東京オリンピック前後より国鉄渋谷駅改良工事がはじまった。マンサード屋根の駅舎は1965年に解体されたので、まさに姿を消す直前、suishiは最後の姿をカメラに収めようとしていたのだった。

その後渋谷駅北口は、1968年6月に北口高架橋が完成し、現在の姿と近いものになっている。

2027年に完了する大規模な渋谷駅再開発の中で現在、着々と解体が進む渋谷駅の建物。東館も西館も消え、この写真の面影は何も無くなってしまう。今から10数年後、この写真を見て渋谷駅だと分かる人がどのくらいいるだろうか。
2015.12.28 Monday

喫茶店横にある梅沢バイオリン店


【1964年:新橋】
suihiは何を写したかったのだろう?
初め、中央のオレンジ色の露店でドリンクや焼き鳥なんか入れられてる紙コップみたいな装飾テントが目立つ喫茶店を記録したものかと思ったが、どうやら違う。その隣の「UMEZAWA VIOLIN」がこの写真の主人公である。

suishiは学生時代より趣味でバイオリンを弾いていた。suishiの末弟は鈴木鎮一が提唱したバイオリン教授法「スズキ・メソード」の教師、suishiの子も現役バイオリニストである。


【1940年、suishi24歳のころ】

とにかくバイオリンと縁深いsuishiであった。

では「UMEZAWA VIOLIN」とは何か。
正式には梅沢楽器店という名前で、バイオリン系(ビオラ・チェロ・コントラバス)専門の楽器店として有名であった。1990年代初めに店主が亡くなり、店を閉じたらしい。

1964年当時、中学生であったsuishiの子のために梅沢楽器でバイオリンを買ったのであろうか。それにしては控えめな写真の撮り方である。





 
2015.11.12 Thursday

明治百年協賛イベントからはじまった大銀座祭

1968年、日本中が「明治百年」に沸いていた。封建社会から近代社会への転換地点となった明治のはじまりから百年。ときは高度経済成長まっただ中「昭和元禄」とも呼ばれていた未来永劫バラ色に見えた時代。全国各地で「明治百年」を冠したイベントや事業が行われた。

東京銀座では、明治百年を前にその姿が大きく変わろうとしていた。前年の1967年に都電が廃止され、ちょうどその時期に電話・電気・ガス・水道の共同溝が完成し、銀座の街から電柱と電線が消えた。(2012.6.24エントリ 銀座都電最後の日から見えること

明治百年の1968年秋、新しい銀座を世にアピールするイベントが始った。その名も「大銀座祭」


【銀座:1968年10月】

当時、「ピーコック革命」という男性のファッションにカラフルなものを着よう!というムーヴメントが起こり、デパートが特に熱心に推していた。多くのデパートが集まる銀座では、ピーコック革命の影響からか、タイトルもロゴマークも派手なレインボーカラー。


イベントの一環だろうか、旗とモールで飾られた1936年製のダットサンのオープンカー。1968年当時から考えると僅か32年前のクルマながらレトロ感からくるインパクトは抜群。いま(2015年)、街で32年前のクルマ、例えば初代シティやハチロクレビン・トレノなどみてそれほどの存在感を受けることができるだろうか。

明治百年を機にはじまった「大銀座祭」はその後、恒例行事化し、「大銀座まつり」として長く秋の目玉イベントとして親しまれていた。1999年には発展的に解消し、現在では「オータム・ギンザ」という催しに姿を変えている。
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