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2015.08.09 Sunday

放送禁止音盤目録【戦後70年シリーズ2】


suishiの資料の中にこのような冊子があった。表紙には「放送禁止音盤目録」とある。昭和19年4月現在で、作成は国際局業務部資料班。

1ページ目を開くと

まず、どの段階で放送禁止となるかの基準が書かれている。

例題
一、停止トアルハ放送全般ニ使用停止
一、国内停止トアルハ国内放送ニ送出停止
一、国外停止トアルハ国外放送ニ送出停止
一、国外放送使用上注意トアルハ停止ニ非ザレ共可成送出ノ場合を考慮ノコト
一、前線向ケ停止トアルハ前線向放送実施当時同放送ニ送出ヲ停止サレタルモノナリ

国内・国外問わずすべてにおいて放送禁止である「停止」、国外はOKであるが国内放送は禁止である「国内停止」、その逆が「国外停止」。国外放送で禁止とまではいかないが、取り扱い注意とする「国外放送使用上注意」。戦場に向けての放送である「前線向け放送」で放送禁止である「前線向ケ停止」。曲の性質によって扱いが異なっていたことがわかる。

次ページから、昭和15年から昭和19年までの放送禁止となった音源とその発行元、品番などが年ごとに表となっている。
年ごとの数は以下のようになっている。
昭和15年(1940) 49曲
昭和16年(1941)151曲
昭和17年(1942)269曲
昭和18年(1943)50曲

戦争のはじまった昭和16年に激増し、特に昭和17年には「前線向ケ停止」曲が目立つ。

放送禁止となった曲のジャンルは、流行歌、映画音楽、ジャズ、管弦楽から、落語、漫才、漫談、小唄、浪曲、義太夫、童謡、そして愛国歌謡までと実に幅広い。「前線向ケ停止」となる曲の多くは、「瞼の故郷」「戦場の幼な子」「かりそめの恋」「君を想ひて」といった望郷を誘うものや恋心を描くテーマが多い。
 

なぜ、放送禁止としては一番重い「停止」扱いになるのか?という曲もある。
昭和18年指定となった「熱沙の雄叫び」はジャンルは愛国歌唱である。

「熱沙の雄叫び」

作詞 下澤白紅
作曲 陸奥明

ベンガル湾の 朝風に
光は昇るよ 東より
夢の印度よ 今ぞ起て
正義亜細亜の 旗の下

渦巻く熱砂 踏み締めて
雄々しく揚げし 独立の
今や祖先の 血に燃ゆる
瞳輝け 祖国愛

椰子の渚に 影映す
ユニオンジャックよ 海に落ち
興る亜細亜の 旗風に
夢の印度は 遂に起つ

思えば永き 眠りより
目覚めて強し 民四億
赤き血潮に 鉄の腕
挙げよ熱砂の 雄叫びを


英国の支配からインド独立を日本も応援するよ、という歌である。昭和18年にテイチクから発売されているが、即放送禁止指定となっている。

それぞれ、放送禁止になった理由を知りたいものであるが、この資料にはそこまでは書かれていない。もしそのあたり詳しい文献などあったら教えていただきたい。
 
2015.08.08 Saturday

1945年8月の家計簿、1日早く知っていた終戦【戦後70年シリーズ1】

戦後70年シリーズをお送りする。1回目は「1945年8月の家計簿」。suishiは詳細な家計簿をつけていたということは以前書いた。
今回注目したいのは1945年、昭和20年の家計簿。

戦争末期で物資が無かった時代のものとは思えないほどしっかりとした表紙。早速開いて8月のページを見てみよう。


中身はこのような感じ。金額の下2桁は銭位。8月1日の三角布とメンタムへの支出2100とあるのは、21円0銭という意味。ところどころ見られる「タモリ」という文字。これは「夕刊」のこと。10銭とはまた安い。

suishi、この家計簿としての出納帳に金銭の出し入れ記録の他に、当時の戦局の様子を断片的にメモしている。右ページ上欄外には8月6日、広島に原爆が落とされた記録が残されている。

戦時中、情報が統制されていた中で、素早く広島の様子をメモしている。
「8.6朝 広島にB29少数侵入。新型爆弾使用 被害相当」
まだ原子爆弾であるとの認識はしていない。


気になる記述が8月13日。
「参謀本部駿河台分室(俘虜放送)一二三少佐殿より」

戦争中、陸軍参謀本部は、駿河台にあった西村伊作が設立した文化学院を接収、表向き「駿河台技術研究所」の看板を掛けていたが、実際は、対米謀略ラジオ放送を行う参謀本部駿河台分室であった。特に1943年12月から1945年8月14日まで、大森に収容されていた連合国軍のPOW(戦争捕虜)を駿河台まで連れて来てアメリカに向けた俘虜放送「日の丸アワー」を放送した。

suishiは1944年NHKに入局した。英語が堪能であったsuishiは海外局演出部に配属されていた。1945年8月当時、俘虜放送の担当参謀であったのは一二三九兵衛少佐。一二三少佐は陸軍中野学校出身であった。

8月13日、suishiは一二三少佐から100円という当時としては大金を受け取っている。このことが一体何を意味するのか?susihiはNHK職員の立場で俘虜放送に関わっていたのか?

15日にはこのようなことも

「会長より14日重大発表待機慰労(宿直)のため」とあり、14円受け取っている。
15日正午の玉音放送にも何らかの形で関わっていたのか?

次のページはこのような感じ。

8月14日・15日に注目して欲しい。

20.8.14 「四?宣言受諾 大東亜戦争終結へ 大詔渙発す」
20.8.15正午 聖上おみづから御放送

NHKの海外局という部署は、同盟通信(共同通信の前身)から受け取ったニュースを海外に向け放送していた。広島の原爆投下、ソビエト参戦、ポツダム宣言受諾など、国内の国民が知る前に把握していた。suishiは知り得た情報を密かに家計簿に記録していたのか。

suishiは生前、戦時中の仕事のことを一切語らなかった。そのためsuishiの海外局での仕事、陸軍参謀本部駿河台分室の俘虜放送との関係などまだまだわからないことも多い。1冊の家計簿の中に残された断片的な情報を組み立ててみたいものだ。
 
2014.04.27 Sunday

1947年に発行された家計簿を見る2(昔の休日編)



さて、もうひとつ、興味深いのは、1948年のカレンダー。12月25日が休日になっている。クリスマスがオフィシャルな祝日だったの???いやいや、そんなことはない。

下の説明を見ると12月25日は「クリスマス」であると同時に「大正天皇祭」とある。

1948年7月まで、休日を規定していたのは「休日ニ関スル件」という勅令(天皇発の法令)であった。この勅令によると、「先帝祭」というの日があった。それは先の大正天皇が崩御された日、12月25日を休日とするものであった。
その他にも

1月1日:四方拝
1月3日:元始祭
1月5日:新年宴会
2月11日:紀元節
3月21日:春季皇霊祭
4月3日:神武天皇祭
4月29日:天長節
9月23日:秋季皇霊祭
10月17日:神嘗祭
11月3日:明治節
11月23日:新嘗祭
12月25日:大正天皇祭 
 
が休日として決められていた。

この家計簿のカレンダー、休日であるはずの4月3日神武天皇祭が抜けていたり、下欄の特別な日一覧には休日・祭日に合わせて、メーデーやクリスマスが入るなどごった煮状態だ。

さて、1948年用の日記として、1947年に刊行されたわけだが、1948年7月、「国民の祝日に関する法律」が公布され、祝祭日の追加・廃止・改称が行われている。

余談ではあるが、戦前までの休日は、その名称から「休む目的」がはっきりしていたように感じる。しかし、現在の祝祭日といえば「休むための休み」に他ならない。その傾向が顕著になったのが、1973年に制度化された祝祭日が日曜になったら翌日が休みになる「振替休日」、1985年に制度化された2つの祝日の間に挟まれた中日を休日とする「国民の休日」、1998年に制度化された「ハッピーマンデー」。いや、別にいいことなので特に文句があるわけではないのだが・・・。


 
2014.04.21 Monday

1947年に発行された家計簿を見る1(1947年知恵袋編)


2年ほど前から不定期でツイッター(@0916tai)で#1947知恵袋というハッシュタグで、1947年当時の生活の知恵をつぶやいている。それの元ネタとなったものを紹介しよう。

suishiの紙類コレクションの中にあった、戦後間もない家計簿。講談社から発行されている。

suishiの金銭の流れが、それこそ1銭単位で事細かに記されている。当時のリアルな物価を知ることができ、大変貴重な資料なのだが、今回注目するのはsuishiの記録ではなく、ページの両脇に小さな文字で書かれている短文。

「餅の黴でも赤と黄とは無害だが黒黴は頗る危険、餅の黒い粉が散って耳へでも入ると聾になるから、こんなのは焼き捨てるに限る。」

黒カビって耳に入ると聴力失うんだ・・・。初めて知りました。(某氏も言い訳で使えばよかったのに笑)赤や黄のカビを無害と言い切る潔さもすごい。

「頗る」とか「〜に限る」とか言い回しに時代を感じる。こんな感じで「暮らしの豆知識」が毎日一行書かれている。まるで、JTB時刻表にある「グったいむ」みたい。(投稿ものではないけど・・)

ここで、今までツイッターで公開したものをまとめたので1947年当時、市井の人々の生活の知恵を感じていただきたい。
引き続き、不定期で公開していくので気になる方は、ツイッターアカウント(@0916tai)をフォローください。
(次回、もう1回だけこの「家計簿」ネタで引っ張ります)

それでは続きをクリック!

 
続きを読む >>
2014.03.27 Thursday

上野下アパートのイケメン4兄弟

今年1月、「大伯父、県洋二のこと」というタイトルで宝塚の振付師だった大伯父のことを書いた。まぁ、モテモテのイケメンだったわけだが、その兄のsuishiもなかなかのイケメンだった。

【1940年suishi24歳】
日中戦争まっただ中の時期、学生服で七三分け、それにバイオリンですよ!非国民と言われてもおかしくない。

そしてsuishiのお兄さんがこちら。

【1940年】
ビシッとスーツで決めてクラリネット吹いている。ここは当時、suishi一家が住んでいた、同潤会上野下アパート。モダンなアパートからバイオリンやらクラリネットの音色が流れていた。相当異色だ。suishiの兄は、その後大手ゼネコンの重役をとなり、30年ほど前に亡くなった。

suishiのすぐ下の弟は、1月紹介した県洋二なので、ここでは説明を繰り返さない。

そして、suishi一家の末弟がこちら。

【1944年】
もう戦争映画の主役級クラスのイケメンじゃぁないですか。何だそのキリっとした目は!中塚二等兵!
suishi家末弟は、戦後、バイオリンの教師となった。90歳近い現在も現役のバイオリン指導者である。

戦時中の東京上野下アパートにイケメン4兄弟が住んでいて、しかもジャズやクラシックの音色が流れてくる。上野かいわいの女子はキュンキュンだったろうな。

さて、私はsuishiと血が繋がっている関係なのだが、ビジュアル的にまったく受け継いでいない!!!suishi4兄弟の血がもう少し濃ければ違った人生になっていたかもしれないのに(笑)
2013.11.25 Monday

元祖小顔ポーズ


【1942年6月:日本大学文学部芸術学科】
太平洋戦争まっただ中の1942年、suishi25歳(右)のスナップ。当時suishiは日本大学文学部芸術学科でクラシック音楽を学んでいた。戦時中であるにも関わらず、なんだろうこの牧歌感。

そうか!左の人のこのポーズのせいだ!

男らしく腕を組むsuishiの横でぼんやりと頬杖をつく彼の名は「木岡君」。今、若い女性の間で流行中の、手のひらを頬のラインに沿ってあてる「小顔ポーズ」!!それを70年も前に、しかも男子がやっていたとは!!こわーい憲兵さんに「この非常時に、自分をかわいく見せるためのポーズで写真に写るとは!この非国民め!」と怒鳴られそうだ。

いやはや実際のところ、木岡君、べつに小顔に見せたいわけじゃないんだろうけど・・・。

さて、若い女性の間で「小顔ポーズ」が一般的になったのはいつごろからだろうか?
検索してみたところ、2011年のあるニュース記事に「「最新の小顔ポーズ」として顔の輪郭に手を添えるポーズを伝授。」とあった。そんなに古くない話だ。


私も仕事でポートレートを撮ったりするが、2011年頃から「小顔ポーズ」する子が増えてきた。左の写真は、2011年に撮影したもの。撮った当時は、モデルが「小顔」を意識しているとは思わなかったが、いまから考えると、彼女は「最新のポーズ」を決めていたわけだ。

2013年現在、若い女性のプリクラを見ると、この「小顔ポーズ」だらけだ。「小顔」はモテ女の必須条件のようだ。

話を1942年に戻そう。70年先の「小顔ポーズ」を決めた木岡君、その後どのような人生を歩んだか残念ながらわからない。翌1943年、学徒出陣がはじまり、真っ先に召集されてしまったのか?こんな牧歌的なポーズで写真を撮ることができる時間はそう長くはなかったのかもしれない。

※ちなみにsuishiは大学卒業後、NHKに入局、海外の情報収集を担当する部署にいたため召集を免れている。
 
2012.04.04 Wednesday

1940年:銀座松屋


【1940年11月:銀座松屋の近く】
suishi撮影の写真の中で一番古いものの1枚。紀元2600年の祝賀ムードの中、24歳
のsuishiはカメラを持ってひたすら街歩きをしていた。


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2012.03.27 Tuesday

1943年:同潤会上野下アパートの庭

 
【1943年:台東区東上野】
この庭の様子を見る限り、平和な日常だ。戦争中であっても空襲で直接被害を受けるまでは、「銃後」にとって戦争はどこか他所事だったのかもしれない。

さて、写真左の物干しに注目してほしい。

2011年3月に撮影した同地点。68年前と同じ位置で同じような形の物干しを使っているところがすごい。
2012.03.18 Sunday

1944年:同潤会上野下アパート


 【1944年 台東区東上野】
suishiの父親が一時期同潤会上野下アパートの管理人をしており、その頃、suishi一家はこのアパートに住んでいた。2012年時点で現存する最後の同潤会アパートでもある。写真左下の子どもは存命なら75歳くらいか?

昨年、同地点を訪れてみた。(写真が少々露出オーバーなのはご容赦)アパートの住人や近所の方にお話を伺ったが、1944年当時のことを知る人はいなかった。
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