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2016.08.06 Saturday

作り直された「原爆死没者慰霊碑」

写真上 1956年9月撮影

写真下 2015年5月撮影

 

71年前の8月6日、広島に原子爆弾が投下され多くの尊い命が犠牲になった。広島平和記念公園には、原爆ドームを望むアーチ型のモニュメントがある。原爆死没者慰霊碑の名前で知られているが、正式名称は「広島平和都市慰霊碑」という。原爆投下から70年以上経過した現在でもこの地を訪れ静かな祈りを捧げる人が絶えない。

 

慰霊碑は1952年8月、丹下健三のデザインで完成した。

 

原爆投下から11年後、慰霊碑完成2年後の1954年、suishiは広島を訪れている。平和記念公園の木々もまだ成長しておらず慰霊碑の周りもまだ殺風景である。

 

同じような写真を撮ろうと、私も広島を訪れた。公園は緑に囲まれ、慰霊碑には多くの献花が。

新旧2枚の写真を比べてみると、あることに気づいた。

 

慰霊碑の雰囲気がなんとなく違う・・・古いのはなんとなくずんぐりしているというか・・・

 

古い写真ではアーチには2つの継ぎ目がありコンクリートの3つのパーツを組み立てている構造。一方、新しい写真では継ぎ目はアーチ中央の1か所のみ。

 

調べてみると、現在の慰霊碑は、1985年に改築したものだという。

 

1952年当時の初代はコンクリート製であったが、老朽化のため御影石製に作り直された。

 

なお、作り直されいる途中、ベニヤ板で慰霊碑のコピーが作られ、一時的に、古い慰霊碑とコピーの慰霊碑が並んでいたらしい。

 2015年09月16日 中国新聞 PDF(612KB)

 

1985年に慰霊碑が作り直されていたとは全く知らなかった。この慰霊碑、私は何度も見ているが、2枚の新旧写真を並べてみるまでそのことには気づかなかった。新旧比較して見えてくる新たな視点。被ばくから71年経った今日、suishiからのプレゼントなのかもしれない。

 

 

 

2015.07.13 Monday

谷中五重塔炎上

今から58年前の1957年7月6日早朝、東京都台東区谷中にある天王寺五重塔から出火、またたく間に燃え、全焼した。その原因は放火による心中事件であった。

suishiの戦前のアルバムに在りし日の五重塔の姿があった。

【1940年:谷中天王寺】

当時上野下アパートに住んでいたsuishiはこの五重塔に愛着を持っていたらしい。1957年に焼失した際の新聞記事のスクラップをかなりの数保管していた。

谷中の五重塔をモチーフにした小説『五重塔』を書いた幸田露伴の娘、幸田文もコメントを寄せている。

1957年7月6日の日誌にはこう書いてある。

「谷中五重塔、今朝消失。放火心中らしい。ひどいことをやるものだ。」

suishiは普段、日誌にあまり感想を書かないが、だからこそ「ひどいことをやるものだ」の一言にやるせない思いが詰まっている。

気になる写真が1枚あった。

【1957年7月6日:谷中】
1957年の写真の束にあった。suishiは当時、中野に住んでいたため、早朝の谷中に現場にいるとは考えられない。裏書きを見ると、どうやら知り合いか仕事仲間のT氏にもらったものらしい。T氏がどういう人なのかわからないが、日誌を見ると、7日にT氏からカルピス2本をお中元としてもらっている。親しい間柄だったのだろう。

さて、今年4月、私はふと谷中の五重塔跡が気になり、当地を訪問してみた。

【2015年4月:谷中五重塔跡】
礎石のみが残り、中に入れないよう柵がめぐらされている。ここは現在、東京都指定史跡となっている。

案内の看板もあった。

谷中の五重塔、明治に作られたという実測図が残されており、再建は可能らしい。しかし、東京オリンピックの新国立競技場問題で財政難な都も現在それどころではないだろう。

 
2014.12.15 Monday

カラヤン来日とマロネフ49


【1957年11月:日比谷公会堂】
クラシックの巨匠カラヤン(1908-1989)、日本での人気は没後25年経った今でも安定の高さである。単独来日しN響でタクトを振った1954年以来、11度来日していることも大きいだろう。

写真は、ベルリンフィルを率いて全国公演を行った際、会場のひとつであった日比谷公会堂の看板。suishiはこの来日を楽しみにしていたらしく、何度か行われた東京公演に数回足を運んでいる。

さて、話しはここで終わらないのがsuishi。憧れのカラヤンに会いに行っている。

【1957年11月 撮影場所不明】
写真右がカラヤンである。楽屋出待ちならぬ、駅待ち。カラヤン当時49歳。うーん、かっこいい。周囲の外人さんはベルリンフィルの団員だろうか。この場所がどの駅かわからない。そんなに大きな駅ではなさそう。しかし、ネットなどない時代、どのように情報を掴んでいたのか。NHKの力を使ったか?


【1957年11月 撮影場所不明】
カラヤン、かなり有名人だったようで、売店スタンドで駅員さんにサインをしている。スタンドにあるビン牛乳やラムネが時代を物語る。

【1957年11月 撮影場所不明】
これからカラヤンが乗車するであろう寝台車で車掌さんとパチリ。二人ともカメラ目線じゃないのはご愛敬。

カラヤン率いるベルリンフィルメンバー110名は、11月4日から22日まで、東京ー名古屋ー福岡ー北九州(八幡)ー広島ー大阪ー神戸ー東京ー仙台 というツアーを強行している。その移動はすべて列車であった。写真を見ると、マロネフ49 とある。現在のA寝台車にあたる2等寝台車だ。列車名を差すサボ受けに何もないのはベルリンフィルの専用列車なのか?


【1957年11月 撮影場所不明】
寝台車の窓を開けてワゴンから買い物をするベルリンフィルの団員たち。

カラヤン来日公演はテレビ生中継されたほどの話題となったらしいのだが、この駅の風景、ファンは駅員のみという脱力。

しかしここは一体どこなんだろう。使われている客車が急行「十和田」に連結されていたマロネフ49だから東日本、仙台に向かう、もしくは仙台から帰る途中だろうか。suishiにしては詳細なキャプションが無い、珍しい写真群である。



 
2014.05.05 Monday

座敷でフォークとナイフを使う―和洋折衷ってこういう意味だっけ?


【1953年7月:田村町木村屋】

NHK音楽資料部の宴会のひとこまである。7月に入りすっかり暑くなってビールも進んでますねぇ。真ん中にはサントリー角瓶も見えますよ。いやー楽しそう。

さて、この写真、何か違和感を持ちませんか?

そう、座敷での宴会なのに料理が洋食!しかも全員フォークとナイフ使ってる。和洋折衷ってこういう意味だったか?宴たけなわの様子で料理の内容までわからないが、コース料理というわけでもなさそう。洋食一品料理をフォークとナイフでつつきながら座敷でビール飲む宴会。「イスとテーブルでお箸」という組み合わせはあっても「座敷にフォークとナイフ」はあまり聞いたことがない。シュールだ。

さて、シュールな宴会の会場となったのは、新橋にあった洋菓子の田村町木村屋2階の洋食レストラン。田村町木村屋は1900年、あんぱんで有名な銀座木村屋から独立、1933年に洋食部門を設立している。現在は港区芝の港勤労福祉会館に移転している。ネットでみても、現在の田村町木村屋は普通の老舗洋食屋。ちゃんとイスとテーブルに座っていただくスタイル。

うーむ、1950年代はカオスだなぁ・・・と思って調べたら、現在でもこういうスタイルの洋食屋さんがありました。日本橋人形町の芳味亭(ホウミテイ)。まさに写真と同じスタイルで洋食一品料理を食べられる。こちらも都内では割と有名な老舗らしい。

和洋折衷料理ならぬ、和洋折衷食事スタイル。suishiの写真をきっかけに、おもしろいカタチをまたひとつ知ってしまった。
 
2014.02.16 Sunday

雪に強い街だった?1954年の東京は。

東京は46年ぶりの大雪らしい。2月16日の気象庁発表によると東京の積雪は25センチあるとか。電車は追突事故、道路は慢性的渋滞、交通の影響はなはだしい様子がニュースを賑わす。

さて、遡ること60年前の1954年1月、東京では積雪量30センチを超す大雪が降った。当時の写真をsuishiが記録していたので見てみよう。

124雑色
【1954年1月24日:高円寺付近】
東京とは思えない景色である。屋根の上には大量の雪。長靴をはいた学生服の子どもが雪遊びをしている。写真左奥には大きな雪だるまの姿も。今も昔も雪が降ったら雪だるま。

125田村町交差点
【1954年1月25日:田村町交差点】
現在の西新橋の様子。記録によると、この写真が撮影された25日の積雪量が30センチだったらしい。しかし、都電も走り、当時スタッドレスタイヤなどなかったはずだが、車も走り、その横を自転車やバイクがかすめる。

126中野駅
【1954年1月26日:国鉄中野駅】
線路まわりには土混じりの雪がつもり、建物の屋根からは大きなつららが。そういえば、最近、つららって見なくなったね。奥には茶色い国電(中央線?)が普通に走っている。

suishiの日誌をひもとくと、都心が大雪に見舞われたこの日、特段混乱した様子は記されていない。普通にレインブーツを履いて出勤し、早めに退社して普通に帰宅している。電車も止まっていないし、渋滞もおこっていない。人も交通インフラも現在より規模が小さいとはいえ、60年前の東京、今よりよっぽどタフだったんではないだろうか。


 
2012.06.13 Wednesday

屋上遊園地の板張りすべり台


【1954年:新宿伊勢丹屋上】
デパートの屋上遊園地は子どものパラダイス。私も子どもの頃はデパートの屋上へ行く
のが何よりたもしみだった。

今回紹介するのは1950年代、新宿伊勢丹の屋上遊園地。ゾウのすべり台がかわいらしい。
おや?滑り面を見てほしい。フローリング?なんと板張りである。

板張りのすべり台なんてはじめて見た。野ざらしの板張りなんてすぐ木が傷んでささくれだらけ
になりそう。営業時間外はカバーでもかかっていたのだろうか?


伊勢丹の屋上遊園地、すべり台やブランコといった公園遊具レベルのものしかないが、多く
の人でにぎわっている。

では現在、新宿伊勢丹の屋上はどうなっているのか?ちょっと調べてみたらこんな様子だった。
人はほとんどいないし、あんなに目立っていた大きなすべり台も、実にショボくなってしまっている。

この傾向は、新宿伊勢丹に限ったことではなく、全国のデパート屋上遊園地が姿を消しているそう
だ。なんだか寂しい。

参考サイト デパート屋上@観光案内

2012.04.21 Saturday

1956年:三等寝台車にうきうきする


【1956年:東京駅】
出張で福岡に向かう。まだ新幹線のない時代、東京から九州に行くには夜行があたり前。
発車を待つ急行「雲仙」の前で記念撮影。カメラを下げたsuishiの表情がなんだかウキウキ
している。

写真では2等車(今のグリーン車)の前に立っているが、このとき乗ったのは、前年、登場した
ばかりの三等寝台車。当然ながらしっかり記録している。

【三等寝台】
ナハネ10という形式の当時の最新寝台車。寝台は3段構成になっていた。下降窓なのが現在
では新鮮。


【寝台セット前】
見通しを確保するため、中段寝台の仕切り板は外せるようになっていた。


【寝台セット後の様子】
三段寝台はまさに蚕棚。当時の「日誌」には「寝台セット後は腰掛けられず大変不便」という
感想を書いている。朝、目を覚ましてしまえば身の置き場所に困り、通路に立っている状態。


【ナハネ10の洗面所】
こういう所までしっかり写真に撮っているところがすばらしい。奥のハシゴは何に使う
ものなのだろうか?

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