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2016.12.07 Wednesday

2016.12.7 suishi生誕100年 なぜ写真を撮り続けていたのか

【1964年 カメラを下げるsuishi48歳】

 

2016年12月7日、私の祖父であるsuishiこと中塚浩が生まれて100年の日である。

 

先日、suishiゆかりのお寺である、岡山市北区の蔭凉寺で「中塚浩が遺した写真〜昭和の東京の日常〜」を主催した。ゲストに日本ピクトさん学会の内海慶一氏を招きsuishiが記録した写真について語った。

 

トークの中で内海氏より、このブログの説明にsuiihiの「趣味はカメラ」と書いているが、果たしてそうだったのだろうか?という問題提起があった。あらためてsuishiの写真を眺めていると、確かにsuishiはカメラで写真を撮ることを趣味としていたのか?と思う写真に出くわす。

 

【1962年:雑色住宅内】

例えばこの写真。何を撮っているのかわからない。写真右は自分の娘であるがピントは合っていないし、娘も被写体になっていることに気づいていない。タンスの上のオーディオを撮影したかったのか?そうであればもっとオーディオに寄ってもいいはずだ。

 

【1962年:撮影場所不明】

この写真も判断が難しい。左の唯一カメラ目線を送っている自分の娘を撮影したのだと思うが、外灯、看板、通行人など画面の中に余計な情報が多すぎる。

 

 

 

このブログを開設して来年3月で5年になるが、ここで紹介されている写真はすべてsuishiの死後、遺品の中から発見されたもので、生前その存在を知るものはいなかった。家族はsuishiがいつもカメラを持って「何か」を撮っていたことを知っていたが、現像された写真を見ることは無かった。

 

人に見せることのない写真を撮り続けていたsuishi

 

このような写真を見ながら内海氏は繰り返し「何のために撮っていたんだろう・・?」とつぶやく。

 

suishiはなぜ写真を撮っていたのだろう。そのことをsuishiの娘である私の母に聞いてみた。

母は詳しいことはわからないとした上で、「父は、自分の目で見たままのものを記録しておきたかったのじゃないか。記憶はやがて薄れてしまうが、写真に残しておけば忘れることはないと思ったのではないか。」と推察する。

 

suishiにとって写真は作品ではない。表現手段でもない。ただ、自己の記憶を補完するための道具に過ぎなかったのではないか。

 

たまたま、孫である私がsuishiの死後15年のブランクを経て見つけ、このブログで「昭和の記録」としての価値を後付けしているにすぎない。

 

suishiは1940年頃から亡くなる直前の1996年までの50年以上、記憶の補完のために淡々とシャッターを押していた。

写真の技術が向上することもなく、見せる意識を持つこともなく、ブレることなく写真に残していた。

 

 

【1962年方南町駅 46歳のときの写真】          【1994年岡山駅 78歳のときの写真】

 

これからもsuishiの記憶の中の昭和をブログやツイッターで紹介していきます。今後ともよろしくお願いします。

 

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