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2016.07.11 Monday

職場に天皇陛下がやってきた!

今から58年前の1958(昭和33)年7月11日、昭和天皇がsuishiの職場であるNHKを見学された。当時の新聞記事によると、陛下による最新のテレビ放送システムの見学がメインだったようだ。約1時間の見学時間の中で、ちなみにこの頃のNHKは渋谷ではなく、皇居にほど近い内幸町にあった。


約1時間の短い見学時間ながら、長唄のテスト放送、学校放送、ドラマなどのテスト放送、国際放送ラジオの実況の現場をNHK会長の案内で見て回られた。

 

当時の新聞スクラップがこちら。

 

自分の職場に天皇陛下が来られたという大切な思い出をしまってあった。

 

その新聞記事と同じ封筒に入っていたのがこちら。

suishiもカメラを持って、しっかりと昭和天皇と皇后の写真をおさえていた。多くのNHK職員(おそらく幹部職員だろう)に囲まれ、建物を後にする昭和天皇と、その数歩後を歩く皇后。多くのカメラマンに交じって写真を撮っていたsuishi。

 

ちょっと気になったのだが、この写真、天皇を護衛するSPの姿が見えない。この時代、警護なしでお出かけされていたのだろうか。

 

 

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2016.06.20 Monday

地下鉄丸の内線方南町支線開通そのとき

suishiの方南町シリーズ、今回は地下鉄開業当時の写真を紹介する。

 

方南町に地下鉄が開通したのは1962年3月のこと。地下鉄丸ノ内線の中野検車区と中野工場への引き込みも兼ねて、支線の形で建設された。支線建設当初は、中野工場すぐ近くの中野富士見町が終点であったが、方南町地域住民の要望もあり、延伸された。

 

suishiは地下鉄開業の様子をしっかりと記録に残していた。

 

【方南町駅:1962年3月】

当時、営団地下鉄(現在の東京メトロ)は丸ノ内線、銀座線、日比谷線の一部しかなかったことがわかる。このポスターにある、荻窪線というのは、現在の丸ノ内線の新宿荻窪間のことである。1972年に丸ノ内線に名称統合されるまで、荻窪行きを荻窪線、方南町行きを荻窪支線と呼んでいた。

 

方南町駅からの料金表。初乗りは20円。一番遠い浅草や南千住まで行っても60円。

 

【方南2丁目】

方南町かいわいは地下鉄開業に祝賀ムードであった。

開業記念はちょっとしたお祭り気分。

商店街は大売出し。風船プレゼント、祝賀パーティ、そして花火を打ち上げる。大騒ぎである。

記念演芸会のプログラムが漫才、奇術、曲芸、音楽トリオ、民謡に始まり、映画上映まで行われた。ちなみに、映画プログラムのひとつが小林桂樹版「裸の大将」。

 

この写真は以前も掲載した。有人改札の雰囲気は遠い過去のもののような気がする。「定期券拝見」の存在感がすごい。

こちらも再掲ですが、現在の改札の様子。

 

開業当初の電車の様子。色々調べてみると、この車両、支線運用としてはイレギュラーなものであったようだ。

1960年代、支線に使われていた車両は、戦前から銀座線を走っていた100形という古い車両。本線で使われていた400形が支線に入るのは珍しい写真のようだ。

ちなみに現在では02系80番台という車両が3両で走っている。

 

2016年現在、支線は中野坂上と方南町の間3.2キロを3両で折り返し運転を繰り返している。方南町駅のホームが短いため、本線の6両編成が入れないためだ。現在、6両編成対応すべくホーム改良工事がすすめられている。近いうちに方南町まで本線直通運転が実現する。

 

2016.06.06 Monday

杉並区方南町今昔比較2

杉並区方南町2丁目の今昔比較第2弾。

前回1枚目に紹介した写真を180度向きを変えたのがこの場所。(元記事 http://suishi.jugem.jp/?eid=101

【杉並区方南2丁目 上:1964年 下:2016年】
50年の月日で建物はほとんど入れ替わっているが、信号や電柱の位置に変化はない。1964年写真左手に地下鉄丸ノ内線方南町駅が見える。現在の出入り口も当時とほとんど変化がない。

それではもう1枚。

【上1978年 下2016年】
マクドナルドが印象的な写真。マクドナルド1号店が銀座に進出したのがこの写真が撮影される7年前の1971年。英語とカタカナ併用の看板が懐かしい。ツタのからまる凝ったファサードも現在には見られない仕様だ。

 
2016.05.30 Monday

杉並区方南町今昔比較1

先日、東京都杉並区方南町かいわいを歩き、公開してきた写真の今の姿を撮影してきた。

まずこの1枚(元記事 http://suishi.jugem.jp/?eid=98 )

【杉並区方南2丁目 上:1963年 下:2016年】
1963年はまだ道路が舗装されておらず、水たまりが目立つ。写真左側の道は方南通り東行き。1963年当時はなかった街路樹が大きく育っている。当時からの建物はほとんど残っていない。写真右端は現在マンションの建設工事中で、数年後にはまた違う景色になることだろう。


【杉並区方南2丁目 上:1963年 下:2016年】
最初の写真から右の道へ入ったところで、ゆるやかな下り坂になっている。写真右手のミヤモトというお米屋さんがあった場所は空き地に、最近まで営業していたらしい江戸屋という酒屋さんも別な事業所になっている。何より変わったのは1963年当時は緑がうっそうとしていた点。現在ではとても想像できない。2016年写真右奥の木造2階建ての民家、古そうなたたずまいであるが、1963年当時はまだ建築されていない。この写真で唯一変わらないのが電柱。写真右奥に見られる3本の電柱は当時のまま。真ん中の小さい電柱は傾きまで当時と同じ。コンクリートの電柱は耐用年数が長いようだ。

今回のラストはこれ。(元記事 http://suishi.jugem.jp/?eid=93


【杉並区方南2丁目 上:1964年 下:2016年】
今度は1枚目の写真から左方向、方南通りを進んでみた。家は建て替わり、街路樹は大きく育ち、歩道の敷石はアスファルト舗装に代わっている。1964年当時、歩道上で大きな存在感を示していた丹頂型の電話ボックス。2016年現在、形こそ変わり、控えめな雰囲気になったものの、未だ健在。年々電話ボックスが減少する中、よく生き残っているものだ。


50年ほど前の写真を見ながら現在と同じアングルを探すのはなかなか難しい作業なのであるが、今回の3枚は比較的当時の特徴が残っていたので忠実な今昔比較ができた。あと少し撮ったものがあるので次回の更新までしばしお待ちを!
2016.05.15 Sunday

新旧国鉄鎌倉駅のとんがり帽子の時計台


【1984年10月:国鉄鎌倉駅】
1984年10月、現在も健在の国鉄鎌倉駅が新築された。時計台が印象的な古都によく似合うレトロ風建築だ。suishiは鎌倉駅の旧駅舎も記録に残している。

【1973年4月:国鉄鎌倉駅】
1984年の駅舎と雰囲気が似ている。何より目を引くのは時計台。
旧鎌倉駅は1916(大正6)年に建てられ、シンボルである時計台は、「とんがり帽子の時計台」と呼ばれ親しまれていた。この旧駅舎の改築話が持ち上がった時、時計台の保存運動がおこった。運動の成果が実り、古い時計台は鎌倉駅西口に移設され、時計台広場として健在である。

さて、1984年に話を戻そう。鎌倉駅の新築が記念され、人気ラジオ番組の公開放送が行われた。

【1984年10月:国鉄鎌倉駅】
鎌倉駅新築工事中、仮駅舎として使われていたプレハブの建物である。1978年から1996年までニッポン放送の長寿ラジオ番組「玉置宏の笑顔でこんにちは」が放送された。殺風景なプレハブに赤い飾り枠に彩られた目立つ看板の下の窓口は切符売り場だったのであろう。この仮切符売り場からラジオ番組が放送されていた。別の写真を見てみると・・・

左側に玉置宏、その右にはアシスタントの勝呂智子が確認できた。玉置宏がカメラ目線なのは気のせいだろうか?それにしても切符売り場を転用してのラジオ番組も不思議な感じがする。

鎌倉駅旧駅舎が建てられた1916年といえば、suishiの生まれた年。suishiと同い年であることに何かの縁を感じ、鎌倉駅の記録をとっていたのだろうか。
 
2016.04.29 Friday

ここはどこなの方南町PART2

4月4日の記事(ここはどこなのか?―グーグルだけで古写真の現地を特定―)
で1960年代の方南町界隈の写真を紹介した。この写真は前回紹介したカラー写真と同じフィルムに撮影されたもの。

【1964年:杉並区方南町 方南通り】
この写真は現在地はどのあたりなのかを検証してみた。
まず一番目立つのは写真右にある明治チョコレートの看板のある建物。右に入る道が少し曲がっているのか、ファサードも道に沿った形の角度がついている。「岩田屋」というパン屋のようだ。50年以上前の個人商店、検索をかけても何も手がかりはつかめなかった。まぁ、それは想定の範囲内のこと。

次の手がかりは写真中央左に見える「地下鉄」の文字。営団丸の内線方南町駅の入口だ。方南町駅への出入り口は、環七通りと方南通りの2か所しかなく、この道は環七にしては狭すぎるので、方南通りの、現在で言えば2番の出入り口であることはほぼ間違いない。

ダメ押しとして、写真左下に、左ななめ方向に道が続いているように見える。

この3点より、現在地は こちら(グーグルストリートビューへのリンク) であることが特定できた。

4月4日の記事で紹介した「写真3」を逆方向に見たものである。

さて、1970年代の写真アルバムにこのような写真があった。

【1978年:方南通り】
1枚目の写真が撮影されて14年後の同地点。岩田屋であったところには現在も健在なマクドナルドが見られる。しかしそれ以外の店は38年経過した現在、何も残っていないようだ。

厳密な定点観測ではないが、同じポイントを10年以上あけて撮影しているところがsuishiのおもしろいところである。
2016.04.15 Friday

ジャンプするポーズで写真を撮る

ここ数年、ジャンプをして写真を撮るのが若者の間で流行している。あるストックフォトサイトで「ジャンプ」と検索すると写真が46591点もヒットした。

ジャンプをした人物をテーマにした写真作品も人気を集めている。青山裕企氏は「ソラリーマン」というシリーズでジャンプをしたサラリーマンの作品を発表している。

また、林ナツミ氏は「本日の浮遊」というシリーズでジャンプし、あたかも宙に浮いているかのようなセルフポートレートを公開している。

3年ほど前には女子高校生の間で「マカンコウサッポウ」という中央に立つ人間が発する気の力で周囲人間が飛ばされるというトリック写真が流行した。

トリック写真とまでいかなくとも、観光地などに行くと、ジャンプした写真を撮っている人々をよく目にする。

いまや日本全国プロから女子高校生までジャンプポーズ写真が大好きである。

なぜここまでジャンプポーズ写真が流行しているのか。プロの写真家の作品は別として、ちょっとしたジャンプポーズの写真が簡単に撮れるからである。

デジカメやスマホの連写モードでジャンプの一部始終を撮り、ベストショットを選び、あとは消去。気に入らなければ何度でも撮り直し。

さて、前置きが非常に長くなったが、この写真を見てほしい。

【1969年4月:群馬県猿ヶ京温泉】
今から48年前に撮影されたジャンプポーズ写真である。suishiの職場の慰安旅行で群馬県の猿ヶ京温泉を訪れたときのものだ。

写真に写っているのが誰であるか特定できないのでボカシをかけている。都会の喧騒を忘れ、のびのびとしている様子がボカシをかけていてもわかる。

そしてこのジャンプポーズである。suishiがどのようなカメラで撮影したのかわからないが、ブレていないのできちんとシャッタースピードなど設定して撮ったのであろう。同じような写真が複数ないので連写などせず一発撮りだ。当然フィルムなので撮影した写真をすぐ確認などできない。
何より、お堅い昭和のNHK職員のこのはじけ具合、ジャンプを求めたsuishiの遊び心であり、今から48年前、高度成長期ど真ん中、まだまだ天井知らずのジャンプの写真、スマホで簡単にとれる現在のジャンプポーズ写真よりはるかに重みのある1枚だ。





写真素材のピクスタ  
2016.04.11 Monday

1等車に乗れるということ


【1963年:新宿駅】
1963年夏の新宿駅にて、妻と子の松本への旅行の見送りの1シーンである。気動車急行「アルプス」か「白馬」か「上高地」のいずれかだろう。気になるのは2枚目の写真の「1」という表示。その下には「指定席車」というサボが掲示されている。そう、現在のグリーン車にあたる1等車に乗っているのだ。いや、厳密にいうと、現在のグリーン車と当時の1等車は料金概念が少々異なる。

グリーン車に乗車するには、運賃+グリーン料金、そして(現在ではほとんど無いが)急行の場合は急行料金、特急の場合は特急料金が必要だ。急行料金や特急料金にグリーン車か普通車かの区別は無い。このグリーン車の制度が誕生したのは1969年のことだ。

では1969年以前はどうだったかというと、運賃や急行料金などが1等、2等と等級制になっていた。1等は概ね2等の2倍の料金であった。現在の制度と大きく異なるのは、急行の1等車に乗る場合、2等のおよそ2倍の運賃を支払う上に、急行料金も2等の2倍である1等急行料金を支払う必要があった。さらに通行税1割(1963年当時)が上乗せされた。運賃も2倍、急行料金も2倍、そして通行税。1等車は2等車に比べかなり割高な存在であった。

あまりピンとこないかもしれないので、実際の料金で比較してみよう。
現在、新宿から松本までJRを使って行くにはいくら必要なのか。現在、同区間に急行は走っていないので、特急で計算すると、

新宿-松本 運賃4000円 特急料金(指定席)2820円 合計6820円

グリーン車を利用する場合、グリーン料金が4110円なので、普通車の料金に加えた合計10930円 グリーン車と普通車の価格差は1.6倍といったところである。

仮に現在の料金でかつての等級制料金体系をおおよそ当てはめた場合、

新宿-松本 1等運賃7330円 1等特急料金6210円(通行税1割加算) 合計13540円、2等との価格差は約2倍。

現在のグリーン車、価格差は2倍を下回っている上に、企画きっぷなどを利用すればもっと割安で乗車することもできるが、当時の1等車は純粋に2倍払うことのできる経済力を持つ人しか乗ることができなかった。

では、1963年当時、この急行の1等車指定席に乗るにはいくら必要だったのか。

新宿-松本 1等運賃 1140円 1等急行料金 440円(通行税1割加算) 座席指定券 200円 合計1780円 

これが2等車自由席であれば、
新宿-松本 2等運賃 620円 2等急行料金 200円 合計820円 である。その価格差はおよそ2.2倍!


suishi家は家族の旅行に1等車を使えるほどの経済力を持っていたのか。

興味深い記録が見つかった。suishiの家計簿に当時いくら給料をもらっていたのかが残されていた。
1963年8月、suishiの給料は手取りは99300円であった。この数字がどのくらいのものなのかと、当時の地方公務員の平均給与が32300円。当時suishiは47歳の管理職ということを勘案してもかなりの額をもらっている。

当時、はがきが5円、現在は約50円という尺度で比較すると手取り99万3000円。ほぼ月給100万円プレーヤーである。

なるほど、1等車にポーンと乗れるだけの経済力が確かにsuishiにはあったのである。
2016.04.04 Monday

ここはどこなのか?―グーグルだけで古写真の現地を特定―


【写真1 1964年:杉並区方南町】
舗装されていない緩やかな傾斜の路地。周りにはうっそうと茂る草木。その間から除く住宅。suishiが記録した写真のキャプションによると1964年の方南町とある。

このブログでも何度か紹介しているが、1960年代の杉並区方南町界隈、バスの通るメインストリート以外はこのような「薄暗い緑」のイメージであったようだ。

さて、方南町といっても、実際にここはどこなのか?現在はどのようになっているのか?遠方のため現地に行くことはできないので、手持ちの資料とグーグルアースで調べてみた。

1.同じ場所を撮影した別の写真を探す
suishiは1960〜70年代に方南町の写真を多く残しているので、同じ場所を撮影した別写真を探してみた。手がかりは、下り坂、写真左の木、そして「クスリは大丸」「質 中屋」という電柱広告。すると見つかったのが次の写真。


【写真2 1963年:方南町】
下り坂、写真左の木、「クスリは大丸」「質 中屋」という電柱広告、すべての条件をクリアし、更に、米屋のミナモト、「雪印バター」の看板の商店という新たな手掛かりも見つけることができた。
しかし、「方南町 米屋 ミナモト」「方南町 雪印バター」などで検索してみても特に手がかりは得られず。

続いて見つかったのがこの写真

【写真3 1963年:方南町】
写真左は二車線の大きな道路。右に入ると生活道路になっている。お、生活道路の奥にはあの風景が。

左に「雪印バター」の看板、その奥にはうっそうとした木、そして下り坂。かなり場所を特定することができた。

あとはこの写真にある「洋品 あみもの ひつじ屋」、大きな通りの左側にある「おしどり●」「よりい会館」の所在地がわかれば完了。当時の住宅地図をあたれば簡単に見つかるのだろうが、50年以上前の杉並区の住宅地図を簡単に閲覧できるような場所にいないので、グーグルの力を借りることにする。

「方南町 洋品 ひつじ屋」「方南町 おしどり」などなど検索にかけてみたが、まったくヒットしない。困った。

もう一度写真2をじっくりと観察し、「雪印バター」の看板に注目してみた。

よくよく看板を眺めると、雪印バターのお店ではなく「食料品缶詰 江戸屋支店」という店名、下には電話番号まで書いてある。

この電話番号と「江戸屋」を入力してググってみると、「江戸屋酒店」がヒットした。どうやら現在も営業しているらしい。住所も杉並区方南町二丁目と特定できた。

はい、完全に特定完了!!!

写真1は、地下鉄方南町駅そばのマクドナルドの辺りから方南通り東方面に少し進んだところを右に入ったところであった。

















さて、現在、この地はどのような姿になっているのだろうか?

インターネットとは便利なもので、現地に行かなくても、グーグルのストリートビューで住所を入れると、はい、この通り

写真3の現在の様子(グーグルストリートビューページへのリンク)

ひつじ屋であったところはクリーニング店となり、「おしどり」も「よりい会館」もなくなっている。写真右端にあるコンクリートの壁だけが当時の面影を残しているが、この地も近いうちに再開発で10階建てのビルになるようだ。

あらためて写真1のような薄暗い緑の路地というものは、東京都心には見られなくなった風景であることがわかる。

グーグルだけで古写真の現在地特定を試み、特定までかかった時間が約1時間。方南町はsuishiゆかりの地とはいえ、私自身それほど詳しい街ではない。私に土地勘があればもっと早く解決できたかもしれない。



 
2016.03.27 Sunday

1963年の下田市あれこれ

今回は東京を離れ、suishiが伊豆半島の南端、静岡県下田市を訪問した際の写真を紹介する。


【長楽寺(静岡県下田市):1963年】
1854年3月31日、日米和親条約の締結により長い間鎖国状態にあった江戸幕府に開国を認めさせたアメリカのペリー。最初にアメリカへ門戸を開いた港が伊豆半島の南端、下田である。アメリカが日本の開国に成功したという報はすぐに列強諸国の耳に入るところとなり、我も我もと開国要求にやってくる。

アメリカに一歩遅れを取ってしまったのがロシアである。日本とロシアの関係はアメリカのそれよりずっと古い。ペリーの開国要求よりも50年以上前から通商を求めている。しかし、日米和親条約から遅れること約1年、1855年2月7日に日露和親条約を結び、ロシアに対しても開国した。そのときのロシア全権はプチャーチン。プチャーチン一行は、下田の長楽寺で条約に調印した。

ちなみに条約の中に日本とロシアの国境に関する内容が含まれていることから、日露和親条約が結ばれた2月7日を「北方領土の日」とし、長楽寺と、同時期にアメリカの総領事館として使われていた玉泉寺の間を走る「北方領土マラソン」が行われているらしい。

さて、プチャーチンは条約交渉の最中である1854年12月23日、安政東海地震に遭っている。この地震の津波により、プチャーチンの船ディアナ号が大破(のちに沈没)してしまった。条約調印後、プチャーチンは幕府に帰国のための船を建造することを願い出、伊豆半島北西の戸田(へだ)村で日露合同による船の建造が行われた。完成した船はヘダ号と名付けられ、プチャーチンは無事にロシアへ帰国した。


【下田ドック:1963年】
寝姿山をバックに下田船渠のドックを撮影している。
かつて下田は造船で栄えた。この写真の撮影後、湾を埋め立て、ドックが次々と拡張された。しかし1974年をピークに造船業は次第に勢いを失う。1993年には巨大なドックは閉鎖され、現在、下田ドック跡地は公園となっている。


下田市の美人ミスコンクールの顔ハメ看板で遊ぶsuishi。この頃から顔ハメ看板があったのか。大きさからして対象は明らかに大人。なかなか味のある顔ハメ看板である。

今回は下田市を紹介したが、suishiは全国出張が多く、その土地で写真を撮影している。折をみて東京以外のものも紹介していこうと思う。
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